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Toyokazu Nomura / 野村 豊和 Toyokazu Nomura / 野村 豊和
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Toyokazu Nomura

Judoka

背負い投げの神様 野村先生

野村先生は1972年ミュンヘンオリンピックで全試合を左右の背負い投げだけで一本勝ちし、金メダルを獲得された超人的な方です。また野村先生の甥にあたる野村忠宏さんはオリンピックで3連覇されています。

僕からすると野村先生は柔道の神様のような存在で、2014年に母校の神戸大学にて背負い投げを学ばせて頂いた時に初めてお話しました。野村先生はとても気さくな方で、背負い投げのコツを非常にわかり易く指導して頂き、目から鱗の技術でした。選手時代に学ばせて頂きたかったと心から思いました。また武道の奥深さを感じさせて頂いた事を鮮明に覚えています。

それからは僕が指導に行っている京都大学や灘校で背負い投げの講習会をして頂いたり、野村先生のお宅でご馳走を食べさせて頂いたりと公私ともに大変お世話になっています。僕が2017年にヨーロッパ遠征に行った際には、野村先生のご紹介でフランス柔道界の重鎮であるPatrick Vialさんとお会いし、フランスの柔道ナショナルチームの方と貴重な交流をさせて頂きました。

野村先生とお会いした時にいつも聞かせて頂く、オリンピックまでの道のりが素晴らしい話なので、たくさんの方に読んで頂きたいと思い、執筆をお願いしました。

井谷 武

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To those who love judo

Toyokazu Nomura

Judoka

  • 1949年7月14日生まれ 奈良県出身
  • ミュンヘンオリンピック金メダリスト 野村道場創設者

1959年、奈良の田舎で農業をしていた父は柔道が好きで豊徳館道場をはじめました。私が10歳の時に父の道場が出来たので柔道をはじめました。本当にひ弱な子供でしたが柔道を始めたお陰で病気もしなくなり、元気な子供になっていきました。中学には柔道部がなくて、3年生になってようやく柔道部を作ってもらい、試合に参加することが出来ました。それまでは試合に出ることが出来ませんでした。天理高校の入試時に、天理大学の柔道部の寮に泊まりました。天理大学柔道部の山崎さんにお世話になり、その時に今までやった事のない後ろ回りの背負い投げを教えてもらいました。しかしやるべきかどうか悩んだのですが、天理高校の寮に入ってからすぐに練習するようになりました。

当時の身長は162cm、体重63kg。こんな身体では戦えない、なんとか自分の背負い投げを作らないとの思いで、練習後の夜に一人打ち込みやトレーニングをはじめました。しかし思うようにはいきません。なんせ相手は強豪ばかり。背負い投げで右の肘を痛めてしまい、練習で背負い投げをかけることも出来ずどうにもなりませんでした。右が駄目なら左の一本背負いと思い、練習をはじめました。自転車屋さんに行ってパンクしたチューブをもらって、来る日もチューブが切れるまで打ち込みしました。

少しでも良い背負い投げの完成を目指して、ただ事ではない練習量と毎晩999回のチューブ引きを続けました。毎日練習していると少しずつ変わってきました。感じたことをノートに書き、少しでも良い背負い投げの方法がないか探し続けました。三年でついにインターハイに出場、いきなり全国優勝出来ました。

天理大学に入学。相手は大学生、はじめの間は良かったがその後はスランプに陥りました・・・

2回生になって今までの柔道を考え直しました。ただ一生懸命ではなく、より相手の動きや心の動きを捕らえる、感じる柔道を目指しました。すると大学2回生でメキシコ選手権2位、3回生でアジア大会優勝、4回生でドイツ選手権2位になり、東京にある博報堂に入社しました。その年はオリンピックで私は-63kg級で予選に出場したいと考えていましたが、何故か-70kg級のエントリーになっていました。

-70kg級の選手は湊谷さん・津田さんがとてつもなく強く、練習ではゴミのごとく投げられていました。田舎から東京に来たばかり・・何とかしたい・・何とかしないと・・の思いでいっぱいでした。

予選は6月、毎日相手に欠点は無いものか、勝つチャンスは無いものかと考え作戦を立てました。100に1つの賭けかもしれないが、この作戦に賭けるしかありませんでした。

“私にはこれしかなかった”

九州で予選があり、最初は津田さん・・決勝は湊谷さんに。これしかない作戦が当たりました。

本番でのオリンピック、柔道をはじめて12年目、最高の舞台で思うような柔道が出来ました。少し少しずつですが良い方に進んで行けたのは、多くの方からのアドバイスが私を助けてくれたからの様に思います。

楽しいと 思える日まで 苦労せよ